現在までの進行状況

 2000人のホームページの取材活動は春・夏・冬の年に3回。取材活動に参加する学生たちが長期休暇の時期に、1〜3週間くらいの期間で集中的に行われています。当初は10年がかりとも言われていた『全町取材計画』ですが、取材参加者の増加や作業の効率化などにより急激にペースが上がり、2002年度をもって全集落をひとまず回り終えました。
 今後は、今のところアポイントメントによる補完取材を中心に行う方針です。

現在までの掲載件数 ひとびと 掲載件数 748件 取材件数 755
見どころ 掲載件数 283
※ただし、人は1ページに数人が紹介されている場合もあるため、
件数=人数ではありません。
取材済の集落数 44/44集落(2周目:8/44)

これまでの足跡

2004 春の取材
茂倉集落

04/14 春の取材最終工程、内容修正作業が完了。記事をWEB出力。
今回は取材スタッフ総勢15名。計26名の方からお話を伺うことができました。住民のみなさまのご協力に感謝します。
03/20 修正依頼締め切り。
03/04 取材対象となった住民の方へ、暫定的に完成した記事を配る。のだが、原稿の直しなどで午前中がつぶれ、昼過ぎにようやく終了。
03/08 記事締め切り。
締め切り時刻を過ぎても原稿が一向に揃わず、作業が終わったのは午前3時。しかし実はそれでもまだ原稿が揃っていなかった。
03/01 2004年春の取材を開始。今回は粉食の伝統を中心に取材。

2003 冬の取材
早川奈良田集落

01/19 冬の取材最終工程、内容修正作業が完了。記事をWEB出力。
今回は取材スタッフ総勢9名。計15名の方からお話を伺うことができました。住民のみなさまのご協力に感謝します。
01/14 修正依頼締め切り。
12/12 取材対象となった住民の方へ、暫定的に完成した記事を配る。
12/11 記事締め切り。
記事数が少なかったためか、なんとなくだらだらとした空気が流れる。午前4時を回ってようやく終了。
12/04 2003年冬の取材を開始。今回は未掲載者への補完取材も並行しつつ、集落の歴史・文化の追加取材に重きをおいた取材スタイルで臨むことに。

2003 夏の取材
(前半)草塩京ヶ島集落と未取材者を中心に取材・(後半)やませみ小縄集落と未取材者を中心に取材

09/27 夏の取材最終工程、内容修正作業が完了。記事をWEB出力。
今回は取材スタッフ総勢19名。計73名の方からお話を伺うことができました。住民のみなさまのご協力に感謝します。
09/16 修正依頼締め切り。
09/01 取材対象となった住民の方へ、暫定的に完成した記事を配る。
08/31 記事締め切り。
作業完了は午前2:00頃。交流センターの玄関ホールでささやかな打ち上げを行う。さらに翌日早起きするのが嫌なので、封筒詰めまで寝る前にすましてしまうことに。
08/24 2003年夏の取材(後半)を開始。参加人数の少なさが懸念されたため、とりあえず取材対象は小縄集落のみ。
08/19 前半取材分をWEB出力。
08/18 修正依頼締め切り。
08/10 取材対象となった住民の方へ、暫定的に完成した記事を配る。
08/09 記事締め切り。
前回の反省も踏まえた早め早めの対応により、全ての行程が午前0:00頃には終了。当然、飲む。
08/01 2003年春の取材(前半)を開始。春の取材に引きつづき「アポの嵐」を敢行。さらに2巡目として初めての補完・追跡取材も実行。記念すべき取材対象は草塩・京ヶ島集落。

2003 春の取材
知人・役場関係者を中心に取材

04/08 春の取材最終工程、内容修正作業が完了。記事をWEB出力。
今回は取材スタッフ総勢12名。計40名の方からお話を伺うことができました。住民のみなさまのご協力に感謝します。
03/14 取材対象となった住民の方へ、暫定的に完成した記事を配る。
03/13 記事締め切り。
諸般の事情により、締め日にほとんど全ての記事を書かなくてはならないという前代未聞の事態が発生。締め切り時刻は異例の22:00。案の定その後も簡単には終わらず、締め作業完了は朝の8:30。さらに研究所の「やる気応援事業最終報告会」準備のため、そのまま夕方まで眠れない。
03/05 2003年春の取材を開始。前回で全ての集落を一周したため、今回は知り合いや役場関係者で未取材だった方を中心に、アポ取りによる取材(作戦名「The storm of appointments - アポの嵐」)を決行。

2002 冬の取材
角瀬高住新道集落

01/12 冬の取材最終工程、内容修正作業が完了。3集落をWEB出力。
今回は取材スタッフ総勢8名。角瀬・高住・新道の3集落で、計41名の方からお話を伺うことができました。住民のみなさまのご協力に感謝します。
YBS山梨放送の取材を受けました。
12/20 取材対象となった住民の方へ、暫定的に完成した記事を配る。
12/19 記事締め切り。1周目最後の記念すべき締め作業。
今回は取材参加者が少なかったためか記事や写真もすぐに揃い、印刷が全自動化されたこともあって、日が変わる前にあっさりと終わる。‥‥が、こんなに早く終わるのは初めてなので、気をよくして乾杯してしまう。結局、寝る時間はいつもと変わらない。
12/11 2002年冬の取材を開始。今回の取材対象は角瀬・高住・新道の3集落。

2002 夏の取材
(前半)馬場老平初鹿島榑坪・(後半)上湯島下湯島温泉久田子集落

09/09 夏の取材最終工程、内容修正作業が完了。後半4集落をWEB出力。
今回は取材スタッフ総勢22名。馬場・老平・初鹿島・榑坪・上湯島・下湯島・温泉・久田子の8集落で、計102名の方からお話を伺うことができました。住民のみなさまのご協力に感謝します。
09/08 後半4集落の修正依頼締め切り。
08/31 取材対象となった住民の方へ、暫定的に完成した記事を配る。
08/30 後半4集落(上湯島・下湯島・温泉・久田子)の記事締め切り。
今回は日程が厳しく当夜まで取材があったため、徹夜で締めの作業。体力の限界に挑戦。
08/27 前半4集落をWEB出力。
08/26 前半4集落の修正依頼締め切り。
08/24 2002年夏の取材(後半)を開始。今回の取材対象は上湯島・下湯島・温泉・久田子の4集落。
08/11 取材対象となった住民の方へ、暫定的に完成した記事を配る。
08/10 前半4集落(馬場・老平・初鹿島・榑坪)の記事締め切り。
画像や記事の管理体制が甘くなっていたか‥‥。いろいろと手こずって作業完了までに午前4:00を回る。山登りの後の徹夜は辛い。眠い。
08/03 2002年夏の取材(前半)を開始。今回の取材対象は馬場・老平・初鹿島・榑坪の4集落。

2002 春の取材
早川黒桂西之宮白石柳島古屋大島塩之上笹走戸川集落

03/19 取材した10集落の内容修正作業が完了。WEB出力。
これで早川・黒桂・西之宮・白石・柳島・古屋・大島・塩之上・笹走・戸川の10集落は取材活動が一段落。今回は取材スタッフ28名、住民の方106名からお話を伺うことができました。住民のみなさまのご協力に感謝します。
03/18 住民の方の修正依頼締め切り。
03/11 取材対象となった住民の方へ、暫定的に完成した記事を配る。
03/10 全10集落に及んだ今回の取材記事の最終締め切り。
最終的に残った4人のスタッフですべての記事の校正と画像の適合作業、全記事の印刷を行う。前回29日の教訓から、より一層の効率化が図られた画像の管理体制により、日が変わった午前2:00頃には全過程が終了。
03/08 住民の方の修正依頼締め切り。
03/03 さらに戸川集落の追加取材が決定。
03/01 柳島・古屋・大島集落の追加取材が決定。
02/28 取材対象となった住民の方へ、暫定的に完成した記事を配る。
02/27 前半4集落(早川・黒桂・西之宮・白石)の記事締め切り。
記事の校正作業と画像の適合作業の後、住民の方に確認を求めるための暫定的な記事の印刷を行う。作業の効率化により早々と終わる予定だったが、数枚の画像が見付からなかったために印刷作業が遅れ、早朝6:00前までかかる。眠い。
02/25 今回は取材スタッフがいつにも増して多く、予定していた4集落が早々と終わりそうになったため、急遽、塩之上・笹走集落の追加取材が決定される。
02/20 2002年春の取材活動を開始。今回の取材対象は早川・黒桂・西之宮・白石の4集落。

‥‥昔の足跡
2001
12/18 冬の取材(12/2〜12/8)
新倉中洲塩島大原野集落で64名を掲載。スタッフは前回と同数の17名で、内6名が外部の学生だった。制作担当が初めて早川町を訪れたのもこの時で、以降さまざまな改変(こうした活動記録も含めて)を行うことになる。この回の取材では、早川北小学校の児童と一緒に取材を行い、ホームページの制作過程を体験するという初の試みも行われた。
09/11 夏の取材(8/27〜9/3)
室草里長畑細野稲又差越夏秋集落で64名を掲載。この回は外部の学生を受け入れた初の取材活動となった。地域づくりインターンに参加した学生などを含め、取材スタッフは一挙17名にふくれあがる。あり余るパワーで6集落を取材し、先の見えない「10年計画」に早期完了の兆しが見え始める。
03/13 春の取材(2/22〜3/5)
千須和小縄集落で43名を掲載。編集後記によれば「二つの集落を回るのに二週間」。この回の取材スタッフは10名となっているが、前回冬の取材と比べると、なぜかだいぶのんびりペースである。
2000
11/28 冬の取材(11/13〜19)
原村北村集落で42名を掲載。硯島(雨畑)地区初の取材。取材スタッフは、後藤研単体では最多となる13名。
08/01 夏の取材(7/18〜24)
奈良田集落で24名を掲載。スタッフは5名。温泉に入りたかった‥‥のかもしれない。
03/28 春の取材(3/14〜20)
薬袋集落(完全版)で24名を掲載。1999年夏に行われた薬袋集落の取材が、「2000人のホームページ」では例外的にテーマ(養蚕)を決めた取材だったので、スタッフ7名で対象とならなかった方々の補完取材。
1999
12/21 冬の取材(12/9〜12)
茂倉集落で29名を掲載。スタッフ6名で初の遠出。
09/07 夏の取材(8/28〜31)
薬袋集落(養蚕編)で6名を掲載。スタッフ2名、わずか3日間の取材だが、この回の取材は単なるヒアリングではなく、養蚕を再現するという、失われた地域文化の発掘と共に行われた。
03/19 引き続き行われた翌年春の取材(3/5〜12)
京ヶ島草塩集落で37名を掲載。この回だけは編集後記が残されていないので、誰が参加したのかも不明だが、記録にはスタッフ13名で行われたとある。
1998
12/07 記念すべき初の取材(11/27〜30)
この時点で「中山間地域からの情報発信」「山村の文化の再認識」というある程度具体的な役割が見えてきた「2000人のホームページ」という代物をとにかく具現化すべく、早稲田大学後藤晴彦研究室の学生・OB6名の手を借りて制作が行われる。最初に掲載されたのは赤沢集落で、18名を掲載。
1997
xx/xx 研究所での計画段階。「基本的に町民が全員自分のページを持つのが2000人のホームページ?かな?でもまあ、自分で作れない人もたくさんいるだろうから、そういう場合はこちらで取材して紹介ページを作ろうか」という感じだったらしい。あまりにも途方もない話なので、町のネット同好会の会員がすでに作っていたサイトも「2000人のホームページ」の一部として進めていたようだ。
1996
xx/xx 早川町の全住民をホームページに掲載するプロジェクト「2000人のホームページ」が企画される。というより、研究所が設立された'96年の時点ですでに町の「長期総合計画・日本上流文化圏構想('94)」の一つとして名前だけはあったらしい。しかし具体的な進め方などが策定されていたわけではなく、計画だけが研究所に流れてきた。今となっては、そもそも誰が言い出したことなのかすら定かではない‥‥。