前の記事へ 奈良田ハカセ 次の記事へ

 声をかけると家より少し高いところにある畑から身軽に降りてきてくれた義男さん。78歳とは思えない身のこなしです。義男さんは奈良田生まれの奈良田育ちで、奈良田の事なら何でも知っています。コタツの中でみかんをいただきながら若い頃の話や集落の話をたくさん聞かせてもらいました。
 畑にはほとんど毎日出掛けているそうで、今日は大根を収穫されているところでした。ダムができる前は、今の家が建っている所にも畑があり、ダムに近い、今の大家があるあたりにも畑を持っていたそうです。奈良田では昭和28年頃まで焼畑をしていたそうで、その様子を詳しく話してくれました。焼畑はだいたい秋の10月頃、木を切り倒し、次の年の5月頃それを細かくして天気の良い日に火を入れ(つけ)ます。その時、火が山に入ることのないように山の上の方から焼いて、半分くらい焼けたら下から焼きます。それでもたまに火が逃げる(周囲に燃え移る)こともあったそうです。焼いたら灰を肥料にしてアワや小豆、大豆を交互に作り、一カ所の畑を3年間使いました。その後ハンノキなどの苗を使って植林をし、16年放ってから焼いてまた使います。今では山を焼いたり木を伐採することがないので山菜やきのこが昔のように採れなくなったそうです。
 義男さんの家の畑では昔アワ、キビ、サツマイモ、ジャガイモ、大根、菜っ葉などを作っていました。奈良田では稲は作れません。正月やお盆になると増穂町から米を買ってきたそうです。しかし義男さんが学生の頃、そんな貴重なお米を盆と正月以外に食べることがありました。それは下駄作りを仕事にしていた時のことです。義男さんの家ではサワグルミ、ハンノキなどの木から下駄の形を作る仕事をしていました。義男さんのお父さんはそれを背負って増穂町に仕上げに出していました。義男さんはお父さんの帰りを沢のところまでよく迎えに行っていたそうで、その時お父さんが向こうでもらってきたお米のごはんを食べることができたのです。「それがとても楽しみだったねぇ」と笑顔で聞かせてくれました。
 下駄作りの後も義男さんは今まで色々な仕事をしてきました。大井川で山の仕事をしていた時には、山道を作ったり伐採の仕事をしたりしていました。山師の次は本州製紙で4、5年勤め、植林をしたり下刈りをする仕事をしていたそうです。そして発電所で道路の維持管理をした後、県の職員になり、退職するまで勤めました。そんな経歴を生かしてか、今は老人クラブの会長をしています。だいたいいつも15人程度が集まり、草取りやゴミ拾いのボランティアの活動などをしています。「みんな集まって楽しくやっているよ」とのこと。「でも少し行事があり過ぎ…」と忙しそうでした。「人数が沢山集まればゲートボールなんかもしたい」と意欲ある会長さんでした。
 最後に、取材の途中から一緒に話をしてくださった奥さんとツーショット撮影。二人の仲の良さが伝わってきませんか?!

検索エンジンなどから来られた方はここからトップページに戻れます 2003/12/04
文責 松井 桃子
奈良田